ハクナ日記。
名前を呼ばれて、ぼんやりとそちらを見た。
朝日は昇り、もはや松明も要らなくなっていた。
ハクナの目の前には紺色の長髪をなびかせた男が、ハクナに剣を向け、何事かを呟いた。
それを聞いたハクナは目を見開いて、剣を抜き何かを言うが、聞こえる声量ではない。
次の瞬間、視界は暗転し、ハクナも長髪の男も見えなくなった。
最後に「彼」が見たのは、ハクナがこちらを見て酷く驚く顔、そしてハクナの声。
「…許すものか…お前だけはお前だけはお前だけは!!!」
ハクナの怒鳴り声に、静止する声、高笑いの声が聞こえた。
―――
デルタ=バルの諜報部隊は、女の到着を迎え入れた。
「ご苦労だったね。で、誰にもつけられてないだろうね。」
「ふふ。猫が一匹。でもここでそれも居なくなるんでしょう?」
「意地の悪い人ですな…じゃあ、排除といきましょうか。」
その会話を聞いて思わず身じろいだ影に向かって弓が突き刺さり、小さくどさりと音がした。
「不躾な猫だね。気に食わないよ、本当。」
「死体はどうする。一応は使えるんじゃないの、あの娘。」
「知らねーよ。狼が片付けてくれるんじゃないのか。」
部隊員は、それぞれ馬に乗り込み移動を開始した。
あたりが静かになり、青い目に光が差した。
「…行ったようですね…。」
「んぐ…んぐぐぐぐ…」
「あ、ごめんなさい。叫ぶかと思って口を塞いでしまいました。」
「い、いえ、助かりました、ハクナ様。」
目の前には咳で咽ているフラウナが居た。格好が侍女ではなく女戦士になっている。ハクナ同様、この女性にもアストリア城に戻る予定が無いように見える。
彼女の咳がおさまるまで、囮として投げた丸太の弓を観察した。自軍の弓ではないことと、性能があまり良い矢ではないのが判った。相手は追跡者が女だと知って射ったのかもしれない
「あいつらの後はユフーラが追っています。ご安心を。」
「…どうしてここに。」
「ははは、フラウナさんと同じ者の後を追っていたのです。めちゃくちゃ怪しかったので。」
「そ、そんな事で戦場を放棄したのですか!?」
「アクターが立派にワーノック卿になってくれてますよ。たぶんね。」
ハクナは微笑してから丸太を横にして腰掛けた。
「さて。何をしていたか、全部喋っていただきましょうか。」
「…。」
「黙秘をなさるおつもりですか。」
「…。」
「俺が、何も知らないとでも。」
フラウナが小刀の柄をぎゅっと握り締めたのをハクナは見た。
「…判りました。では俺が勝手に喋ります。フラウナさん。それともコトミさんとお呼びしましょうか。」
「!」
思い切り睨まれ、内心冷や汗をかいた。ハクナは女性に睨まれると一瞬思考が停止する。
「あなたの正体は、サリバ商会ご令嬢のコトミ=サリバ様。アストリア王との婚礼の儀の前日に暗殺され、偽者と入れ替わってしまった。しかしあなたは生きていた。
あなたと入れ替わった女は、次々とアストリアの貴族を味方につけ、国の内側から破壊をする気でいたのでしょうな。あの性格です、ある程度は上手くいくでしょう。」
「そのとおりです。でもどうしてそれを。」
「あなたは俺の命も狙っていましたね。」
「…ええ。」
「俺は早い段階で君の正体を知らされていた。あのキースが諜報員だったなんて、あなたは知らないでしょうね。…で、俺は毎朝君に殺すチャンスを与えた。でも君は俺の命を取りに来なかった。警備は手薄にしてあったはずだ。何故。」
コトミは静かに立ち上がった。視界の端で、ハクナが剣の柄を掴むのを見た。
「コトミが…あなたを殺そうとしたからです。それに、あなたを殺していいものか、確信が持てなかった。」
ため息を飲み込み、ハルシオンに出発の合図の笛を吹いた。
「やはりあの諜報部隊と合流したのはアストリアの裏切り王妃。」
ハクナが馬に乗り込むと、フラウナは驚いて駆け寄った。
「私を殺さないのですか」
「あなたは俺を殺さなかったし。おあいこじゃないですかね。…それに、看病してくださった女性に剣を向けるなど出来ませんよ。はははは。…あ、ついていらっしゃるなら、ご自由に。」
ハクナはそのままハルシオンを駆って走り出した。
朝日は完全に昇り、空には青空が広がった。東の空には煙が上がっていた。本隊での戦闘も始まったようだった。
「くそ、時間が…!」
ハクナは戦場を西から迂回し、デルタ=バルの諜報部隊をそのまま追跡していた。微かに聞き覚えのあるメロディーの口笛が聞こえた。昔聞いたシマの盗賊団の合図の音だ。
「ハクナ、ハクナ。どっち行くんだよっ本隊はあっちだぜ腰抜け!」
「シマ、ハンジ、今忙しいんだよ俺」
「おっさん二人を困ったさん扱いするんじゃねぇ。助けが要るんだろ。来てやったぞ」
シマとハンジは、それぞれに異様に早い黒馬に乗り、あっという間にハクナに追いついた。
シマが悪態をつこうとする横でハンジが割って入った。
「ハクナ、状況は。あと、お前を追いかけてる女がいる。」
「状況は非常にまずい。俺が追いかけてる6名の諜報部隊が、こちらの作戦を全部知っている恐れがある。一刻も早くそいつらを仕留めないと、何百人死ぬか判らない…!」
「まずいな。で、女については。」
「ひとまず保留!」
「冷たいんだー。」
シマが数秒に一回会話に邪魔をするのも無視して、ハクナとハンジは口頭で作戦を練り始めた。
女の影は、暫くすると見えなくなってしまった。
馬を駆れば駆るほど、ハクナの表情は焦燥に満ち溢れていった。シマは怪訝そうな顔で話しかけた。
「おい大丈夫かよ。」
「…ユフーラが二度目の報告に戻ってこないんだ。」
「鳥か。そういえば遅いな。方角がこっちで合っているかも怪しくなってくる…!!」
瞬時に、道の両脇から弓が放たれ、ハンジの乗っていた馬が崩れるように倒れていった。
「ハンジ!!」
シマとハクナは、もはやぴくりとも動かない黒馬の下敷きになったハンジに駆け寄った。が、次々と弓の雨が降り注ぐ。ハクナは楯でハンジを庇い、シマはハンジを引きずり出した。
「…こいつら諜報部隊じゃない…!」
明らかに弓の数が多すぎた。
「これ…これではまるで…」
「これじゃまるで敵本隊だぞ…!!」
「まさか…こんな事が…!」
辺りは絶望的なまでに見通しの良い平地だった。ユフーラに気を取られて危険区域まで足を伸ばしていたことに気が付かなかったのだ。
「何人、何人いるんだ相手は…!」
「判らない、判らないがこのままでは俺達は全員…!」
途端にハクナの声は途切れ、シマがそちらを見たときには、ハクナは敵陣に走り出していた。
「バカやめろ!」
「出て来いグレン!!お前が欲しいのは俺の命だろうが!!」
ハクナが片方の道脇の林へ入ろうとしたとき、よろよろと林から出てきた少年がいた。銀髪で褐色の肌をし、全身に目を覆いたくなるような怪我をしていて、生死もよく判らない状態だった。
「こんにちは、グレン。いや、まだおはようかな…」
銀髪の少年の背中を蹴って現れたのは、紺色の長髪の男だった。ハクナは、蹴りを受けて倒れた少年を見て叫んだ。
「ユフーラぁぁぁぁ!!」
少年は力なくハクナの方を振り向いた。敵に捕まり、戦闘を試みて人間の姿に変身したが、多勢に無勢でやられてしまったのだろう。尤もこの人数では頑丈なハクナでさえ生きて帰れない。
「…」
ユフーラは何かを言おうとしたが、声にはならなかった。
長髪の男は、ハクナに向けて剣をかざした。
「呪われた血の子よ。ここで死ね。」
「お前に言われなくてもその内のたれ死んでやるよ…だが」
「…許すものか…お前だけはお前だけはお前だけは!!!」
ハクナの瞳はみるみるエメラルドグリーンに変色していった。
「ははははは、またそれか、ハクナ・ハウジィ!哀れだな!自滅してしまえ!」
「哀れなのはお前だ!」
怒りに震えたハンジが両手に炎を宿して立ち上がった。この大陸に魔法を使える人間は殆ど居なかったが、エルフとのハーフだったハンジは、魔法を日常的に使えていた。
「シマ、俺は弓を潰す。シマはハクナに切られないように援護を」
「あいよ。」
シマは仁王立ちして『グレン=ワーノック』に言った。
「お父さんは今、猛烈に怒っているぞ!!」
その声で一瞬バーサーカーが、躓いた。
「ハクナ・ハウジィ!決戦を『もう一人の自分』に任せていいのか!」
剣戟の中で笑いながらグレン=ワーノックは言った。
「…。」
「お前にはまだ言っていないことがあるんだ、いいのか」
「……。」
一心不乱に切りかかるハクナに、グレンはしつこくも話しかけた。
「俺の父の名を教えてやろうか。」
「…殺す。」
「何。」
「不思議だね。いつもは自我を支配されるんだが…。俺は貴様の話を聞いているよ。」
ハクナはようやく一撃グレンに浴びせることが出来た。
「何故…!その瞳の色で自我を保つんだ!?お前はバーサーカーだろうが!化け物は化け物らしく…」
「うるさい…俺は傭兵だ。殺すといったものは、必ず殺す。お前は必ずここで死ぬ。」
「俺の父が、俺の父がお前の師・フォルカス=J=ナタリエでもか!?」
「!」
ハンジは弓の雨をどうにか止めて、ユフーラに駆け寄った。
「ガラじゃねぇからやりたくないんだが。…グリーンノア!!」
ハンジの視界には気絶をしているユフーラからは傷が少しだけ消えたように見えた。そして、シマが膝から崩れ落ちた。
「シマ!大丈夫か!」
「…うはははははは!!!!あのハンジがグリーンノア!ハクナ見た!?見た!?
あいつ魔法少女だぜ!魔法少女!うははははは!!!」
「るせぇ!テメェはいっぺん死ね!!」
ハンジが投げた炎の塊はシマを結果的に守った…ようだ。
一方ハクナは完全に攻撃の手が止まってしまった。
「お前…クロードか…」
「そうだよハクナ兄さん。やっと気付いたの。バカだね。」
ハクナが油断した瞬間を逃さず、ハクナの身体を剣が貫いた。
「そうそう。父上も今のハクナ兄さんみたいに、こんな風に死んでいったよね。」
「ぐあ…。」
「は、ハクナ!!」
「おい魔法少女助けてやれよ!」
「ふざけてる場合か!雑魚で近づけねぇんだよ!!」
ハクナの体からは急速に力が抜けていった。
(師匠…俺は…)
なんとか倒れるのを踏み止まったハクナに、グレン=ワーノックの攻撃が再度振り下ろされた。
瞬時に左肩に激痛が走る。
「うああああああああ!!!!」
「左肩は…俺と父上を守るときに深く切ったことがあるんだったね。もう死んじゃえよハクナ。何を踏み止まってるんだよ。」
「お前…フォル…様の意 志は… どうし た…」
「そんなもの。俺には最初から理解してなかったよ、そうだろ兄さん。父上は兄さんにしか教えなかったんだからな!」
左肩が削がれてしまうかというぐらい深く剣が沈み、ハクナの意識が途切れ始めた。
「傭兵は必ず獲物を仕留めるんだろう、何してるんだよハクナ兄さん!」
(師匠…どうしたらいいんだ…クロードが…クロードが…)
「ハクナ!!!」
グレンとハクナの間に入った人影が居た。
青い髪、同じ声。豪華すぎる青いマント。氷の紋章の入ったブローチ。
「アクター…」
氷の紋章のブローチがハクナを睨みつけていた。
(師匠…師匠… 約束をまた破ります、これから俺は最低なことを…)
ハクナの目の前が血と涙で滲んだ。
ハンジとシマが顔を上げると、アクターとキースが援軍をつれてきていた。
「はぁ。また死に損なっちゃったネ、ハンジ君。」
「あのなぁ。お前ほど生きることに執着してる変態知らないぜ。」
キースはユフーラを回収し、手当てを急がせながらシマに呟いた。
「…父上…。ここからは私に任せて。」
「そうもいかん。俺はもうとんずらはしない事にしたんでね。」
アクターとグレンが剣戟を開始していた。ハクナは、林の中で倒れてしまい、仲間から場所が特定出来ない状態にあった。
「ハクナの弟だな。」
「ああ。双子のな。」
「忌々しい。忌々しい…!」
グレンの剣さばきはアクターから見て、見事と言えるものだった。アクターには相手から伝わる気迫が、剣から冷気で立ち上っているように感じた。
アクターはグレンから防御しかしていなかった。端から見れば押されているように見えたが、ハクナが見ればそれはわざと切らないようにしているように見えた。
「話にならないな。弟よ。」
「お前の人生ほどじゃないさ。」
「このガキ…!」
「ははは、『グレン=ワーノック』。お前はここで死ぬみたいだね。絶対に兄さんが殺しに来る。」
戦況は、キースの援軍が来たおかげで、どうにか互角に戦えるようになっていた。
援軍が着くまでたった5分だったが、合流したときにはシマとハンジはもはや戦える状態に無いほど消耗していた。
シマ曰く『はしゃぎすぎ』らしい。
ハクナは数秒の間気絶していた。林の中で目が覚めて、太陽が無情に見下ろしていた。
傷口が麻痺していて、痛みと戦うのは数秒後だろうと思われた。
よろよろと立ち上がったハクナを見て、『グレン=ワーノック』が青ざめた。
「まだ死なないのか…!父上!まだそんな奴守るんですか!」
「わかりました師匠…クロード=ナタリエを…止めます」
グレンがアクターを蹴り飛ばし、ハクナに向かって走り出した。アクターが必死にハクナを呼ぶ声が聞こえた。
ハクナは、フォルカス=J=ナタリエの剣を打ち直して作ったダガーを抜いた。もはや一撃を与えるのが限界だろうと思われた。クロードを睨み、血が噴出すのも無視して叫んだ。
「味わえ!!これが俺とお前の最期だ!」
クロード=ナタリエが近くの兵の剣を奪い、二刀でハクナに切りかかった。避けようとしないハクナに後方から矢が放たれ、クロードの右手の剣は見事に弾かれた。
ハクナはクロードの一撃を深く受けながら、喉元を切った。
二人は同時に動きを止めて、ばさりと倒れ落ちた。
ユフーラは息を切らせながら、弓を握り締めていた。
林の中の地面はひやりと冷たかったが、ハクナはそれさえも判らなかった。
視界には、持っていた自分のダガーに刻まれた氷の紋章が光っていた。その近くに、最愛の娘の写真の入ったペンダントが落ちている。手が少しも動かせず、写真を見ることは出来ない。
「師 匠… リ ヒト…」
昔ハクナは、自分を悪魔ではないかと師に聞いたことがあった。剣を持つものは皆なり得る者だというのが答えだった。自分の正義で剣をかざすだけが正義ではないこともあった。だからこそ今の自分が悪魔かどうかもわからない。わからないままだった。
ユフーラが泣きながら駆け寄ってくる気配がした。
体中が重い。まるで底のない沼に横たわっているかのようだ。そのまま地面に埋まって消えてしまうのだろうか。視界の端には青空が広がっていた。
どこからか、黒い羽がハクナの手元に舞い降りた。
「ハクナ!死ぬんじゃないぞ!」
ハクナにはユフーラの声が届かなかった。
見えたのは黒い羽だった。
(ああ…そこに居たのか…ずっと探していた)
「エ… ア…。」
全身の力が抜けて、ついに目を閉じた。